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          メール・マガジン

     「FNサービス 問題解決おたすけマン」

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    ★第064号      ’00−10−20★

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     基礎教養

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●往年の<英語社員>は

 

その肩書き通り、英会話はそれなりに達者であった、とは思いますが、

ジョークまでを上手にこなした人は、私の知る限りおりませんでした。

つまり大したレベルではなかった、ということでしょうな。

 

じゃ、どのくらいなら<大したレベル>と言えるのか?

 

英語に限りませんが、その言語で、その国の人と喧嘩して、勝てれば

一人前、という説があります。   辞書にも載っていない罵り言葉

がスラスラ出せ、腕力に頼ることなくロジックで相手を圧倒すること

が出来る、、  なら、まあ<大したもの>でしょう。

 

第59号Y氏のケースは喧嘩というほどのものではなかったけれど、

彼の英語力は、まず<大したもの>だったと思います。  が、

 

そのY氏ですらも、会議の席で自然な笑いを誘い出す、雰囲気を良く

する、みんなを楽しませて対話をよりスムーズにする、というところ

までは行ってなかったな、、  つまり、  

 

喧嘩は出来ても、笑わせることは出来ない、、 となると、笑わせる

方が実力は上、なのではあるまいか。  笑う門には福来たる、です

からね。  福を呼び込む、なんて誰にも出来ることじゃありません。

やはり笑わせる英語の方が上、でしょうな。

 

 

人を楽しませるには、単に英語力でなく、センスやサービス精神など

プラス・アルファが必要です。  Y氏にはハイソ的気取りがあって、

サービスの仕方が偏っていました。  相手を選ぶ、とでも言うか。

それが、あまり長続きしなかった理由の一つだろうと思います。

 

しかし、話し相手を<適度に>笑わせる、、、 これは容易でない。

 

第一、何をどう<笑う>か、相手によってはずいぶん違いますからね。

それもアチラで、となれば、よほど生活習慣や社会情勢にまで通じて

いなかったら、相手が面白がるかどうか、も分かりはしません。

 

問題は我が<お行儀文化>の、笑いを嫌うかのごとき趣き。 会議

での発言にジョークをまじえて喜ばれることは滅多に無いでしょう。

愉快に、流暢に日本語を喋っては、むしろ具合悪い。  そのくせ、

 

見出しは低劣な駄洒落ばかりのスポーツ紙を愛読する人や、TVの

ヨシモト的幼稚演技にバカ笑いする人が実は多数派。  公式的に

笑いが<禁じられて>いるためにかえって、の心理的補償作用では

ないかと思われますが、それやこれやで<笑いの質>は落ちる一方。

 

何をどう笑うか、で基礎教養のレベルがざっと知れるものです。

 

*   *

 

笑いにおける国際格差、、 は会話学校に月謝を払って埋められる

ものじゃなかろう。  とすると、、 ディジタル・ディバイドの

前にイングリッシュ・ディバイド、そのまた前にもう一つあったぜ、

ユーモア・ディバイド!  こりゃ<笑い事>じゃありませんぞ。

 

グローバル・デファクト・スタンダード!と言うは易し、前途遼遠、

Too many rivers to cross !   もとが文化の違いですから、

追うことが無くても普通。  当然、追い越すことも無いだろう。

 

***************

 

 

 

●ドーブツが生存欲求を

満たそうとする時は大真面目な顔付きになるものだ、と読みました。

 

で、改めて我が家のワン公を観察したのですが、たしかに大真面目。

ちょっとタヌキっぽい雑種ですが、大小の用を足す時など、しばし

哲学的というか、おかしいくらい厳粛な表情。

 

我々日本人の無表情的謹厳さも、あるいは<生き抜くための努力>

の表われかも知れない。  妙に悲壮感を漂わせたがる傾向もある。

 

ならいっそ<真面目>に徹するのも良かろう。  寺子屋以来現代

の受験戦争に至る<勉強>の伝統にも、何らか取り柄はあるはず。

ただし、そのままで良いかどうかは別。  それを吟味しましょう。

 

 

文字通りの基礎教養は昔から言う「読み・書き・そろばん」ですが、

近ごろはその辺からすでに<崩壊>してしまっていますからね。

 

まず、字を知りませんな。 知らないから書けない。 知ってない

と困るんじゃないか、と言えば「ムカツクー!」と来る。  知り

たくもない、書きたくもない、、  まさに、知的向上心の崩壊。

 

たとえ字を知っていても、<書き順>の滅茶苦茶な人が少なくない。

十分オジサン年齢の人ですら、ですよ。  正しい順序で組み立て

なきゃ、字だって良い形にならないだろうに、、

 

と言いたいが、書道家も妙な<デザイン>してくれるからなあ、、

フィーリングの時代?  面白きゃいい?  困ったもんだ。

 

*   *

 

書いてあれば読めるが、書けと言われても字が思い浮かばない、、

が、キーさえ叩けば、、 は、いわゆる<ワープロ症候群>。

しかし、キーを叩くにも、<正しい発音>を知らなくては。 

 

どこかで読んだ話ですが、外資系企業に日本の投資家から電話が

あって、「メロンケンショを送ってくれ」。  え? それ何?

 

やり取りの末、<目論見書>のことだと判明したそうですが、、

その電話を受けた人がガイジンさんでなかったことを祈るのみ。

 

その記憶があったので、第59号では「オハイオT社との合弁を

目論み、」と入力しかけて「、、を望み、」に替えたくらい。

 

日本人なら日本語が読めるはず、とは必ずしも期待できない時代

になりました。  TVのアナウンサーすらアヤシイんだから、、

 

*   *   *

 

EM法講師として経験した<もう一段進んだワープロ症候群>は、

模造紙や分析シートに書き込まれた字が読めない、という人たち。

 

手書きだからクセもある、略字も使うだろう、、 で、読めない。

機械で出力された文字でないと読めない(らしい)人が発生して

いるんですな。  これは果たして進化か、退化ではないのか?

 

まずは「読み・書き」の崩壊、かくのごとし。

 

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●<そろばん>は今や博物館行き、

<電卓>に場所を譲りました。  どちらも計算用の器具、では

あるが、大きな違いは、それらを用いる時の<位取り>の意識。

 

そろばん塾育ちなら、まず桁違いはしません。  が、電卓世代

にはそのセンスを欠く例は珍しくない。  設計や発注の桁違い

ミスにギョッとさせられたこと、あるでしょ?  さらに

 

電卓では、暗算能力が育たない。  ところがそんな人に限って、

意思決定や判断の場面で<暗算>をしたがる。  (と言うより、

スジを追って考えるほど根気が無いだけ、かも)

 

当然短絡的で、ヌケ・モレ・カタヨリの誤りを犯す、、 まして

<検算>など、する習慣が無い。  だから誤りにも気づかない。

 

 

そこで例によって、人間2大別。  問題を生む人と生まない人。

 

「読み・書き・そろばん」の<基礎教養>がダメな人が、問題を

<生まない>とは信じがたい。  きっと<生む>方でしょうな。

 

しかし、<基礎教養>があれば問題を<生まない>人になるのか?

必ずしもそんなことは無い。  少しはマシかも知れないけれど、、

 

じゃ、<生まない>人なら良いと言えるのか?  そうでもない。

<生まない>は、その人が問題を増やすわけではないだけのこと。

 

しかし、その人とは無関係に問題は生じ得るものでもあり、その

どれかはその人に解決が任されるかも知れないのだ。  その時、

果たしてその<生まない>人に問題の解決は可能だろうか?

 

問題を生まない人は、解決をも生まない人、かも知れませんぞ。

 

*   *

 

そこで、次の2大別。  解決するタイプとしないタイプ。

 

<生まない>人だけれども<解決しない>タイプ、これはかなり

多いのです。  コトナカレ的幹部とか、どこにもいるでしょ?

 

<解決しない>タイプもまた、<基礎教養>の欠如ゆえ、と私は

ニラんでおります。  どこが、どう欠けているか?

 

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●算術の出来るイヌがいる、

クジラやイルカは音声?で交信し合う。  しかし読み・書きは

人間だけ。  それがダメ、となったら、、?  ドーブツ並み

でしょうな。  交信能力の点では、ドーブツ以下かも、、

 

我が国の教育は、そこを無視しているように思われます。

 

 

文字が発明される遙か前から、話し言葉はありました。  即ち、

口で<話す>、耳で<きく>言葉。  だから、

 

<基礎教養>には<話す>、<きく>も含められるべき、なのに

<読み><書き>だけの教育だったでしょ?  片手落ちですな。

あなたは<話す><きく>を何か、習いましたか?

 

今<話し言葉>が乱れているのも、対人関係不得手の人が増えて

いるのも、<話す、きく>の教育が無かったからではあるまいか?

特に<きく>の教育が、、   試しに伺いましょうか。

 

<きく>にはどんな教育が必要だと、あなたはお考えですか?

 

急には答えられない?  なら、重ねて質問。  

 

<きく>にも色々ある。  <聞く>、<聴く>、<訊く>。

そのどれにおいて<教育>が必要だと思いますか?

 

*   *

 

辞書的には、<聞く>は < hear >、 <聴く>は < listen >、

<訊く>は < ask (questions) >。

 

< hear >は、たとえば

「君の噂を聞いたよ」 I heard a rumor of you.  これは

 

自然に耳に入ってくる音を<きく>、<聞こえる>のですから、

聴覚が健全なら誰でも、努力無しに可能です。  教育は不要。

 

< listen >は、たとえば Listen to me carefully ! 意識して

耳を傾ける耳偏の<聴く>。  これは、誰でも、常に、では

あり得ません。  少なくともシツケを必要とします。

 

< ask (questions) >の<訊く>は、質問して答えさせる行為。

<訊問>ではキビシ過ぎですが、問題解決における<きく>は

これでなくてはいけません。

 

雑多な情報の中から、判断を下すのに必要なものだけ取り出す

には、質問をしかけるのが一番ですから。  でも、その質問

が的を射たものか、となると、これはかなり個人差が大きい。

 

天性上手な人もいますが、一般的にはそのための教育や訓練が

必要です。  お医者さんの問診、弁護士の反対尋問、そして

管理者の情報収集、、  どれもプロフェッショナルの技です。

 

*   *   *

 

お医者さんや弁護士に訊かれれば、誰でもその気で応答します。

下手すると自分の損になりかねませんからね。  しかし

 

職場の管理者、プロには違いないが、そんな迫力は発揮させて

もらえないでしょうな。  それでも事実は掴まねばならぬ、

しかも急ぐ、モメてはならぬ、、  だが、相手は必ずしも

 

協力的とは限らない、、 という状況であっても、必ず的確な

質問を発することが出来る、と自信をもって言えますかな?

 

「どういうことだったんだい? 聞かせてくれないか」では

質問どころか<お願い>です。  相手はここぞとばかり、

積もり積もった苦労話を聞かせてくれるでしょうが、

 

それは主に雑情報。  あなたに必要な情報も含まれている

でしょうが、ふるい分けが大変。  効率が宜しくない。

 

整理してみたら、、 シマッタ!  肝心部分が欠けていた

ことに気づく。  また聞きに行く、、ではサマにならない。

 

*   *   *   *

 

Rational Process は、必要にして十分な情報を論理的な順序

でヌケ・モレなく集めてゆく<端的な質問の体系>。  即ち

<訊く>技法、即ち基礎教養の一つ。  しかも難しくない。

 

分析シートに沿って淡々と、その箇所の質問にだけ答えて頂く。

事実本位、情緒抜き。  それを非人間的、と感じる人もいる

ようではありますが、、  そう感じさせてしまうかどうかは、

 

やはり、あなたのコンテンツ次第でしょうな。  ユーモアも

サービス精神も。  58号、61号、63号では、その辺を  

多少とも申し上げたつもりでした。

 

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Rational Process を用いるのにためらう必要はありません。

が、EM法もKT法も、それを効果あらしめるコンテンツまで

提供してはおりません。  むしろそこに、あなたの個性発揮

の余地が残されている、と了解して頂きます。

 

ことばは神とともにあり、ことばは神なりき(ヨハネ伝1・1)

 

倣って言えば、言葉は人なり、でしょうか。  お互いの気分

を良くするような言葉を交わし合いたいものですね。

      

                      ■竹島元一■

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